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【簡単解説】11州の太守とよばれた尼子経久

尼子経久という戦国大名を聞いたことがありますか?

「信長の野望」をやっている人なら名前は知っていると思います。

どんな人だったのかまで知っている人は歴史が好きな人なんでしょうね。

本当に簡単に尼子経久について見ていきたいと思います。

この記事を読んで尼子経久に興味を持った人はWikiなどで詳しく調べてみてください。

情け深い人柄の尼子経久

長禄2年11月20日(1458年)に、出雲守護代の尼子清定の嫡男として生を受ける。

10代後半に主家の京極氏のもとに人質として出される。(5年間を京都で過ごす)

出雲に戻った後、独自の権力基盤を作ろうとしたが反発にあい、文明16年(1484年)には居城の月山富田城を包囲され城を追われ浪人の身に。

浪人の身となったが出雲に居座り、2年後の文明18年(1486年)の正月に行われた行事に乗じて城を奪回。

鉢屋賀麻党らの変装で、うまく城内に忍び込むことができ、それに続けて旧臣の山中一族らが奇襲をかけ城の奪回に成功する。

尼子経久は私利私欲に走ることがなかったといわれており、民や家臣と苦楽をともにしてきたとも言われている。

貧しい人々を養うために、多くの食客を抱えていたとも伝えられている。

そのため旧臣らは尼子経久をかねてから慕っており、城奪回により恩義に報いたこととなった。

尼子経久の中国地方統一

月山富田城を奪回したものの、出雲の国内には有力な国人が多数いたため、国の支配とまではいかなかった。

長享2年(1488年)に有力国人の三沢氏を滅ぼし、出雲の主導権を握る。

三沢氏との戦いでは謀略を駆使し、圧勝を収めたと言われている。

尼子経久の家臣山中勘兵衛が三沢為忠のもとに出奔してしまった。

これは尼子経久の策略だった。

山中勘兵衛は出奔の2年後、旧主尼子経久への復習のために月山富田城の攻撃を三沢為忠に進言。

月山富田城の内情に詳しい自分(山中勘兵衛)が先鋒になるといい、大量の兵を連れて出陣するとそのまま尼子経久のもとに帰ってしまった。

そのため三沢軍は簡単に撃破されることとなる。

大内氏との争い

同じ時代、周防・長門他を領する大内氏が一大勢力を築いていた。

当初は尼子経久も大内義興の上洛に従ったりと良好な関係を築いていた。

しかし、徐々にその関係性は崩れていき、大内義興が足利義稙を奉じて上洛している隙に西国で速やかに行動に移した。

伯耆・石見・備後・安芸を勢力下に治めた。

阿用(現・島根県東町)では桜井宗的に抵抗され嫡子・政久を亡くす不幸に見舞われる。

大永3年(1523年)、安芸の有力国人である毛利元就が尼子経久に従ったことで、安芸での立場を一気に優位に押し上げ最盛期を迎えた。

順調に勢力を拡大していた尼子経久であったが、安芸武田氏をはじめとする尼子方の国人が次々に大内方に敗れ苦戦を強いられる。

毛利家の家督争いにも介入したが、毛利元就が当主に就き大内方に鞍替えをしてしまう。

三男の塩冶興久の乱

享禄3年(1530年)、三男・塩冶興久が反乱を起こす。

原因は所領加増を巡る確執。

塩冶興久の側には出雲大社や三沢氏などの勢力が結集し、大規模な反乱となった。

塩冶興久と尼子経久ともに大内氏に援助を求めていたが、結局のところ大内氏は尼子経久側を支援した。

この反乱は天文3年(1534年)に鎮圧され、塩冶興久は自害している。

家督譲渡

天文6年(1537年)、尼子経久が家督を譲ったのは80歳のときである。

家督譲渡は嫡男の息子の詮久(後の尼子晴久)にされた。

詮久は若年ながらも伯耆守護代を任されており、塩冶興久の乱の鎮圧において高い功績を上げていた。

家督を詮久に譲った同じ年、尼子氏は大内氏が有していた石見銀山を手中に収め、更に東への勢力拡大を企図して播磨への侵攻を開始した。

尼子経久の最後

大内氏が有していた石見銀山を手中に収めるなどの動きは、塩冶興久の乱の後、表向きは和睦状態にあった大内氏と再度対立することとなる。

天文9年(1540年)、毛利元就討伐のため詮久自ら出陣を決める。

隠居していた尼子経久らからは慎重論が出ていたといわれている。

それでも毛利元就討伐は結構されることとなった。

天文9年(1540年)6月に第一次侵攻が開始されるが、尼子軍は可愛川(江の川)の渡河すらできずに撤退することとなった。

同じ年の8月に第二次侵攻が開始された。今度は吉田郡山城の北西4キロに位置する風越山に陣を置くことに成功。

しかし、その後の城攻めに苦戦することとなる。

天文10年になると大内軍の援軍もあり尼子勢は1月中旬に撤退することとなった。

二度に渡る吉田郡山城の戦いに敗退した尼子氏の勢力は弱体化し、室町幕府から尼子氏討伐の綸旨も出されるなど窮地に陥った。

尼子経久はその窮地に陥った中で84年の生涯に幕を閉じた。

天文10年(1541年)11月13日、月山富田城で尼子経久は息を引き取った。

まとめ

尼子氏を一代で中国地方の大勢力に押し上げた尼子経久は11州の太守と呼ばれることもある。

戦国時代に活躍した大名は数多くいるが、尼子経久と聞いてどんな人物なのかをぱっと分かる人は少ないのではないでしょうか。

簡単に尼子経久について書いてきました。

尼子経久に興味を持たれた方は、書籍やWikiなどで独自に調べてみると更に楽しめると思います。

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