戦国大名の平均寿命は50歳代と言われています。
武田信玄 51歳
上杉謙信 48歳
大内義隆 43歳
斎藤道三 62歳
伊達政宗 68歳
北条早雲の88歳(64歳説あり)というのには驚きです。
なぜ88歳まで長生きすることができたのでしょうか?
もちろん戦で戦死することがなかったということもありますが、病気で亡くなることもなかったのは運が良かっただけなのでしょうか。
どうも長生きの秘密は食べ物にあったのでは。
北条早雲の健康の秘密の食べ物
その食べ物とは「梅干し」です。
梅干しに含まれるクエン酸には殺菌作用があります。
また、筋肉疲労の原因である乳酸を分解する働きもあります。
さらに酸っぱさから出る唾液にパロチンという老化防止のホルモンも含まれています。
北条早雲が長生きした要因には梅干しの影響があったのではないかとも言われています。
現在、小田原は梅干しの名産地として有名なんですよね。
北条早雲による植林から始まったという話もあります。
他にも北条早雲は「ういろう」を製造させました。
「透頂香」という明の陳外郎が伝えた口臭を取り除き眠気を払い痰を切る当時の薬です。
北条早雲が長生きできたのは食べ物に気を使っていたからということがあったのかもしれませんね。
北条早雲の出自
北条早雲というと、浪人からのし上がってきた下剋上の人というイメージがありますよね。
ただ、近年の研究により北条早雲は室町幕府の申次衆伊勢新九郎盛時であったことがほぼ確認されています。
名門中の名家の出身だったとは驚きです。
今川氏と関係があったのは、妹が今川義忠の妻だったからです。
有力守護大名の妻になるということ自体、浪人の家柄ではおかしいことです。
伊勢氏が北条氏に改姓しはじめたのは、北条早雲の子である氏綱であったと言われています。
以後、後北条氏は始祖早雲が鎌倉北条氏の血統を持つ女性を妻とし、血筋を継承してきたからだとされています。
後北条氏の公式記録には、北条早雲は鎌倉幕府最後の執権北条高時の子孫であると記されています。
北条早雲の活躍
文明8年(1476年)、今川義忠が亡くなり家督争いが起こった。
この家督争いを北条早雲は見事に収拾し、力をつけ始めた。
長享元年(1487年)、北条早雲は今川義忠の遺児の龍王丸が元服した後も、今川家の家督を返さない小鹿範満が立て籠もる今川館を急襲した。
この戦いの勝利によって、龍王丸は今川家第7代の家督につき、今川氏親と名乗った。
北条早雲は氏親の後見人として今川家に残り、伊豆半島の興国寺城に入った。
延徳3年(1491年)、堀越公方・足利政知が亡くなったことにより、内紛が勃発。
明応2年(1493年)、堀越公方足利茶々丸を討ち伊豆を奪うことに成功した。
明応4年(1495年)、大森藤頼の小田原城を奪取することに成功。
小田原城を攻めるにあたり、当主の大森藤頼と親交を深めておいて欺く策を弄した。
永正9年(1512年)、三浦氏当主の義同の本拠地岡崎城を攻め、新井城まで敗走させることに成功。
永正13年(1516年)、新井城攻略で三浦義同・義意親子を滅ぼす。
永正15年(1518年)、家督を氏綱に譲る。
北条早雲の分国法
「今川仮名目録」「信玄家法」「朝倉孝景条々」「長宗我部元親百箇条」など戦国時代には自分の領土で適用した決まり事があった。
「早雲寺殿廿一箇条」(そううんじどのにじゅういっかじょう)という家訓が北条家にあった。
他の国の分国法の内容は今で言うところの法律(ルール)のようなものであったが、「早雲寺殿廿一箇条」は日常的訓戒といった内容となっていた。
第1条では「神仏を信じ申すべき事」とあり、宗教を利用した精神の安楽を説いている。
第2条では「朝は早く起きる事」とあり、第3条では「夜は早く寝る事」とある。
第6条では「質素倹約をする事」
第7条では「常に身だしなみを整える事」
といったように生活面についてのことが書かれている。
また、第19条には「門の管理を徹底する事」、第20条には「火元を確認し、用心する事」とある。
北条早雲が制定したかはっきりしていないが、長生きをした早雲の考えが活かされているような気がしますね。
まとめ
88歳まで生きた北条早雲。
今の時代であれば驚きませんが、戦国時代に88歳まで生きたと聞くと凄いと思います。
研究により分かってきたこともありますので、興味を持った方は詳しく調べてみてはどうでしょうか。
2019年に没後500年の節目を迎え、書籍を新しいものが出ています。
戦国大名の新たな一面を見ていくのは楽しいですね。
尼子経久に続き、北条早雲について見てきました。
他にも気になった戦国大名がいたら記事にしたいと思います。